売手市場だった就職活動
さて、4年時の就職活動は売手市場でした。親の希望に添うのは東久留米市役所。が、息が詰まりそうなので消去。かっこ良さに憧れて総合商社、ゼミの影響もあって証券会社にそれぞれ内定しましたが、一番の希望は不動産業でした。
当時、「これからの不動産業は街の機能を付加した開発、デベロッパーの時代」との言葉に触発され、東急不動産(株)に昭和46年に入社しました。
最初は仲介営業(売買の斡旋)。先輩の仕事ぶりを見ながらの徒弟的、自営業的なものでした。その時の係長は、会議は飲み屋で、遊びは徹底的に、そして家族ぐるみの付合等(今では珍しい?)親分肌タイプで、周囲に人の集まる人でした。今でも当時の部下が集まり、その名を冠とした「児山学校」の同窓会は楽しみの一つです。
次の職場が、千葉県土気町(現緑区)の開発区域310ha・地権者1200人・計画人口30,000人の区画整理事業準備の仕事でした。市の開発抑制方針もあり、塩漬け状態。曇天多湿の職場と揶揄されていた職場でした。私も「えっ、まいったな」という気持ちで異動しました。
私の担当は地元対策。地権者に区画整理事業に同意を得ることですが、この種の事業は関係者の利害が錯綜し、合意形成が極めて困難なのは昔も今も同じです。社運を懸けてと言うことで様々に仕掛け、ようやく(具体化し)動き始めれば反対運動にも火がつき、私はその担当係長でした。朝な夕なの地主廻り、土日もなしの住民交渉、説明会を開催すれば罵声を浴びる日々でした。
市議に転身、さらに助役に請われる
一方、両親の高齢化と単身赴任的な生活の中、家の事業や地域付合い、子育て、父母の面倒等の全てが妻にかかってきました。跡取りと言うこと、この先地方転勤や昇進を考えるとここが潮時と退職することにしました。昭和57年9月30日の認可取得の日、その喜びに沸く関係者の祝宴で挨拶を申し上げて11年6ヶ月のサラリーマン生活に別れを告げました。
退職し、家の事に従事しましたが、「暇有り刺激無し」の状態。翌、58年(4月)、市議会議員選挙に、「都市開発の経験を生かし活力ある街を」との旗印で立候補しました。保守系の場合、「種々の地域活動の後、五十代になってから」と言うのが一般的で、「昨日迄サラリーマン、34歳」は異質でしたが、当選することができました。
62年、再選。3カ月程して市長から、市助役にとの要請がありました。雑踏に、山中に、そして日常生活に身を置いて省みても、何処に居てもそんなに存在感があるでなし、「人に請われた時こと存在感」と思い、助役に転身しました。
最大の課題は行財政改革。人口増・歳出増・行政サービス拡大・職員増の行政から、今では当たりまえの民間委託や事業の統合、合理化、職員削減へと転換したわけですが、市政の大転換であり、徹夜議会、市民対話(ほとんど人民裁判的)、そして組合交渉等でヘトヘトになりました。施設管理の合理化のための条例審査の際、「冷静沈着に」の紙を答弁書ら貼って延々13時間の答弁、市長が減俸なら助役も減俸、助役の辞職か行革の中止か等、言われ放題でした。
それでも何とか就任時の課題を達成(現職は勇退)し、反行革を旗印とした革新新市長から「助役の辞職が市民に市政が変わったことのメッセージ」との高い(?)評価をいただき辞職、時に、平成2年1月23日でした。
今日の東久留米市政はもちろん各自治体の行政を見る時、あの取組みは正しかった、先鞭をつけたと回顧しています。
|